神を持たないという前提で生きる
私は死にたくはない。
これは本音だ。
痛いのも嫌だし、
子どもを置いていくのも嫌だ。
でも不思議なことに、
死そのものへの強い恐怖はない。
ICUでの空白
私は2か月、意識がなかった。
あとから知った。
生存率は2.3%だった。
でもその時間に、
光もなかった。
暗闇もなかった。
神もなかった。
ただ、空白。
あの感覚を思い出すと、
死は恐怖というより、
“停止”に近い。
死=終了という仮置き
私は今、
死=終了
と仮置きしている。
確信ではない。
でも現時点の前提だ。
死後は、
私がコントロールできる範囲ではない。
だから強い願望もない。
強い期待もない。
範囲外のことに、
思考を使わない。
それでも今は重い
終了だと仮定すると、
今は有限だ。
来世で回収はできない。
神の計画で補填もない。
だから私は、
・余白を持つ
・家計を設計する
・依存しすぎない
・選択肢を持つ
宗教を持たない代わりに、
構造を持つ。
神に祈る気持ちは分かる
生存率2.3%と聞いたとき、
神に祈る気持ちは分かると思った。
でも、
何の神だろう。
キリストか。
仏か。
八百万か。
選べない。
だから私は持たない。
恐怖がないということ
もしかすると、
死に強い恐怖がないこと自体が、
ひとつの宗教的態度なのかもしれない。
無を受け入れる。
終了を受け入れる。
意味を後付けしない。
それもまた、
一種の信仰に近い姿勢なのかもしれない。
私の宗教
私は神を持たない。
でも前提は持つ。
死は終了と仮置きする。
今は有限と認識する。
コントロールできる範囲に集中する。
これが、私の宗教。
このシリーズは、思考の前提と宗教のカテゴリーにまとめてあります。


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