介護の現場を離れられたのは、
前向きな決断をしたからじゃない。
限界を見極めたからでも、
自分を守れたからでもない。
介護していた人が、亡くなったから。
それだけだ。
私は、
「もう無理だ」と思いながら
介護を続けていた。
このままでは壊れると分かっていた。
構造がおかしいとも分かっていた。
それでも、
生きている限り、離れてはいけない
そんな感覚が、確かにあった。
誰かに言われたわけじゃない。
自分で言語化していたわけでもない。
でも体には、
はっきり刷り込まれていた。
「死ぬまでは面倒を見なければならない」
という強迫観念。
それは責任感というより、
終わらせてはいけないという前提だった。
・途中で降りる正当な理由が見当たらない
・やめた瞬間に「見捨てた」になる
・生きている限り、関係は続く
だから、
「やめる」という選択肢は
最初から存在しなかった。
残っていた出口は、
死だけだった。
亡くなったとき、
悲しみはあった。
でも同時に、
否定しようのない感覚があった。
「終わった」
それは解放でも、
前向きな安堵でもない。
ただ、
続けなくていいという許可が
初めて出た瞬間だった。
介護が終わったから
現場を離れたんじゃない。
終われない介護が、
死によってしか終わらなかった。
だから私は、
もう元の場所に戻れなかった。
ここではっきり言う。
これが、在宅の怖さだ。
在宅介護には、
終わらせる仕組みがない。
代わりがいない。
契約が切れない。
第三者の判断で
強制終了されることもない。
施設にはある
・区切り
・交代
・外部の目
それが、在宅にはない。
だから、
気づかないうちに
前提が立ち上がる。
死ぬまでやるしかない
誰もそう言っていないのに。
自分で決めた覚えもないのに。
在宅という形を選んだ瞬間、
「終われない役」を
一人が背負わされる構造が
静かに始まる。
在宅が人を壊すんじゃない。
終わりを決めない在宅が、人を壊す。
これは、
愛の問題でも
覚悟の問題でもない。
設計の問題だ。
私は、壊れた。
正確に言えば、
終わるまで壊れ続けた。
そして、
死によってしか
終われなかった。
だから私は、
同じ構造の現場には
もう戻れない。
戻らない。
それは逃げでも、
弱さでもない。
次の地獄に入らないという、
最低限の選択だ。
このシリーズは、
介護を称える話じゃない。
「最後までやった人」を
讃える話でもない。
終わり方を決めない介護が、
人をどこまで追い詰めるか
その記録だ。
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#介護
#在宅介護
#介護地獄
#ケアの構造
#壊れないための設計
この話は「介護」カテゴリーにまとめてあります。


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