――掃除を誰がやるか、という前提の話
オーストラリアに来た当初、
学校を見て一番違和感があったのは、
英語でも多様性でもなく——掃除だった。
誰もしない。
生徒はしない。
先生もしない。
業者が来て、仕事としてやる。
最初は正直、
「え?そのまま?」
「今それ拾わない?」
と、心の中でツッコミが止まらなかった。
でもこれはマナーの問題じゃない。
前提の違いだ。
日本の学校では、生徒が掃除をする。
床を拭き、トイレを磨き、ゴミを捨てる。
それは「節約」でも「根性論」でもなく、
使った人が整えるという前提を、体に入れる行為。
一方、オーストラリアは明快だ。
掃除は労働。
役割は契約。
「それは私の仕事じゃない」は、正しい自己防衛。
働き手にとっては、最高の環境だと思う。
境界線がはっきりしている。
無償の気遣いを要求されない。
燃え尽きにくい。
ただ——
サービスを受ける側に立つと、
時々、引っかかる。
ほんの30秒で済むこと。
今ここで一手あれば解決すること。
それでも返ってくるのは、
「それは私の仕事じゃありません」。
慣れた。
ちゃんと慣れた。
でも、好きになったわけじゃない。
ここで言いたいのは、
どっちが正しいかじゃない。
問題は、どの前提で生きる覚悟があるか。
日本の掃除文化は、
・誰かのせいにしにくい
・汚れ仕事を下に見ない
・場を壊さない
という、社会の底板を作ってきた。
日本の教育は壊していいところが山ほどある。
同調圧力も、詰め込みも、空回りの努力も。
でも——
ここだけはズレたら一気に崩れる。
「自分が使った場所は、自分で整える」
この前提さえ残っていれば、
制度が多少ポンコツでも、
社会はなんとか回る。
『それ私の仕事じゃない』社会で生きるのは、楽だ。
でも同時に、
自分がやらない分、誰かがやる社会でもある。
その覚悟、ある?
という話を、ここからしていく。
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