① 混ざることは、ゴールじゃない
オーストラリアは多様性の国だ。
だから教育現場でも、
「多様性を学ぶ」
「違いを受け入れる」
という言葉がよく使われる。
それ自体は、悪いことじゃない。
でも、長く子どもたちの学校生活を見てきて思う。
「多様性教育」という言葉には、幻想が混じっている。
その幻想とは、
「違う人種や文化が、自然に混ざり合っていく」
という前提だ。
現実は、そうなっていない。
人種は交わらない。
文化も、家庭の前提も、簡単には混ざらない。
それは大人社会だけじゃなく、子ども社会でも同じだ。
学校の中では、確かに混ざる。
同じ教室、同じ制服、同じ授業。
でもそれは、配置の話であって、融合ではない。
放課後や週末、
どこで過ごすか、誰と過ごすかを見れば、
子どもたちは自然と
「前提が近い場所」に戻っていく。
これを
失敗だとか
問題だとか
矯正すべきことだとか
私は思わない。
むしろ、自然だと思っている。
人は、安心できる場所に戻る。
言語、文化、価値観、家庭の空気。
それが近いところに集まるのは、人間として当たり前だ。
にもかかわらず、
教育の場では時々、
「もっと混ざるべき」
「違いを乗り越えよう」
という圧がかかる。
でも、無理に混ぜると何が起きるか。
疲れる。
気を遣う。
自分の居場所が分からなくなる。
特に子どもは、
大人よりも敏感だ。
混ざれない自分を、
劣っているように感じてしまう。
馴染めないことを、
努力不足だと思ってしまう。
これは、多様性教育が生む
もう一つの歪みだ。
オーストラリアの社会は、
本当はそんなことを求めていない。
社会全体は、
無理に融合しない前提で設計されている。
共存はする。
距離も保つ。
それでも回る。
なのに、
教育だけが
「みんな仲良く混ざろう」
という理想を追いかけてしまうと、
子どもは混乱する。
多様性教育で本当に必要なのは、
混ざることを教えることじゃない。
- 違いがあっても、隣にいられること
- 分かり合えなくても、尊重できること
- 無理に同化しなくていいこと
この感覚だと思う。
融合しなくてもいい。
一体化しなくてもいい。
自分の文化圏に戻ってもいい。
それでも、
同じ社会で生きていける。
それが、
オーストラリアという国が
現実にやっている多様性だ。
「多様性教育」という言葉が、
もし子どもに
「混ざれない自分はダメだ」
と思わせているなら、
それは教育じゃない。
幻想だ。
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