海外にいると、
「中国人?」「韓国人?」「ベトナム人?」
と聞かれることがある。
今の私は、
それを聞かれても
どうとも感じない。
ただ
「ああ、そう見えるんだな」
それだけ。
でも、若い頃は違った。
正直に言うと、
若いときは
「中国人?」と言われるのが嫌だった。
日本で育って、
日本語で考えて、
日本の空気の中で生きてきたのに。
雑にひとまとめにされた感じがして、
ちゃんと見られていない気がして、
少しだけ否定されたような気分になった。
怒るほどでもない。
抗議するほどでもない。
でも、確実にチクっと残る。
あれはたぶん、
悪意のある差別じゃない。
「区別されなかった」という形の差別
だったんだと思う。
今振り返ると、
あれは国籍の問題じゃなかった。
自分がまだ
「私は何者か」を
自分の中で持ちきれていなかっただけ。
だから
他人の雑なラベルが
そのまま自分の輪郭を削ってきた。
海外で暮らす時間が長くなって、
いろんな国の人と働いて、
いろんな文化の中で生活して。
だんだん
「どこの国の人か」より
「どう生きてる人か」の方が
ずっと重要になった。
仕事の仕方
距離感
感情の扱い方
困ったときの態度
人を見るとき、
誰もパスポートなんて見ていなかった。
今の私は、
日本人であることを
誇示もしないし、
守ろうともしない。
説明する必要も、
理解してもらう必要もない。
私はただ
この顔で
この言葉で
この生き方をしているだけ。
だから
「中国人?」「韓国人?」と聞かれても、
もう何も削られない。
若い頃は
「正確に名前を呼ばれたいフェーズ」だった。
今は
「ラベルがどうでもいいフェーズ」。
これは諦めじゃない。
負けでもない。
差別に慣れたわけじゃなく、
差別に振り回されなくなっただけ。
私は
日本人である前に
アジア人で、
その前に
ただの一人の人間。
そう思えるようになった今、
ようやく
差別の入り口から
一歩、外に出られた気がしている。
※この話は、「差別」カテゴリにまとめています。
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#年齢と思考
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